日本に初めて、公衆衛生技術者の養成訓練と公衆衛生に関する機関として米国ロックフェラー財団の支援により、昭和13年3月29日に国立公衆衛生院(厚生省)が創設(公衆衛生院官制の公布)された。その後、公衆衛生技術者の養成訓練と公衆衛生に関する機関として活動を続けてきた。[1]
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1923年(大正12年)9月1日:関東大震災後、米国ロックフェラー財団より、災害地復興援助の一部として公衆衛生技術員の養成訓練機関開設設立援助の妥当性、実現性に関する非公式連絡が有り。[1]
1930年(昭和5年):公衆衛生院及び学生の臨地訓練機関としての都市及び農村保健館の設計図と共に公衆衛生院の計画案を米国ロックフェラー財団へ送付した。これらの計画案は、米国ロックフェラー財団に於いて検討された結果、遂に了承されることとなり、次いで建築設計の実施案の作製に着手することとなった。[1]
1934年(昭和9年):内務省内に公衆衛生技術員養成機関建設委員会が設けられ、建設に関する一切の事務を処理することとなった。全施設(公衆衛生院の建物、設備、器具、機械、図書並びに両保健館の建物その他とを併せた施設)に対する米国ロックフェラー財団の経済的寄与は総額350余万ドルに達した。[1]
1937年(昭和12年):公衆衛生院及び都市、農村両保健館の建物、器具機器、図書、等の準備が完了し、米国ロックフェラー財団より、建設委員会を通じ、公衆衛生院は日本政府に、都市保健館は東京都に、農村保健館は埼玉県に寄附された。[1]
1938年(昭和13年)3月29日:国立公衆衛生院(厚生省)が創設(公衆衛生院官制の公布)された。また、東京帝国大学名誉教授林春雄が初代院長となった。発足時の教授は、野辺地慶三博士(初代疫学部長)、斎藤潔博士(初代小児衛生部長、創立15周年記念誌編集委員長、第三代国立公衆衛生院長)、石川知福博士(初代環境生理科長、昭和23年東京大学医学部初代公衆衛生教授)、川上理一博士(初代衛生統計学部部長)があたった。[1][2]
国立公衆衛生院の誕生までには、当時の内務省衛生局、ついで厚生省の当事者のなみなみならぬ苦心があったことはいうまでもないが、特に建設委員会幹事野辺地慶三博士(国立公衆院発足時に伝染病研究所疫学研究室は、国立公衆衛生院疫学部として、新発足することとなった。初代疫学部長には、野辺地慶三博士が就任した。伝染病研究所疫学部研究室時代は、その性格上微生物関係の研究は、直接行っていなかったが、新設の疫学部は、この方面の研究も併せ行うこととなった)の献身的な努力に負う所が大であった。[1]野辺地慶三博士は、東京帝国大学医科大学を卒業後、伝染病研究所に入り、コレラ菌の血清学的分類法を発見し、この業績は、現在でも適用されている。[3]
1940年(昭和15年)12月に厚生科学研究所に改められ、昭和17年11月に厚生省所管の全研究機関と共に厚生省研究所に統合された。終戦後の昭和21年5月に元の公衆衛生院に戻った。[1]
国立公衆衛生院 創立15周年記念誌の序文において国立公衆衛生院の古屋 芳雄 二代院長が下記の通り述べている。[1]
本院の現在のあり方、またあるべき方向を決定するためには、本院がいかなる経緯を経てここに到つたかを知る必要がある。……例えば、本院の運営が多数の先輩諸士の援助によつて漸く軌道に乗った如くみえた後でも本院がいかに多くの難関に逢着せねばならなかつたか、特に曠古の大戦争の余波をうけて、度重なる組織の変更に逢い、本院職員がいかに苦闘をつづけねばならなかつたかも本誌に戴するところの本院官制の変革を見れば、これを偲ぶことが出来るのである。
本院は今漸く本院の当然あるべき姿に復帰し、本院のもつ16のコースはすでに7千の卒業者を出し、また多数の責重な研究成果の累積を見ているのであるが、その何れもが本職員の日々の精進苦闘の痕跡である。従つて本院がこの長い年月を通して到着した今日の態勢が容易に動かすべからざるものであること、況んや外部からの一時的な思い付きで簡単に動かしてならないものであることは、この記念誌を読む人のひとしく感ずるところであろう。
といって私たちは徒らに過去を尊重し、現状に甘んじようとするものではない。本院の主な事業が、国の機関に働いている公衆衛生技術者の養成訓練にある以上、それは時代の動きと政治情勢の変化に応じで改められねばならないのは勿論である。然しそのためにも過去の私たちの経験というものは大きく物をいうのである。この記念誌はそうした場合にも役立つことを私は信じでいる。
1965年(昭和40年)に世界保健機関(WHO)は、国立公衆衛生院のDiploma in Public Healthを諸外国の公衆衛生大学修士M.P.H.と同等のものと認め、「世界公衆衛生大学年鑑」に収録している。[2]
世界保健機関は国立公衆衛生院を「School of Public Health(公衆衛生大学院)」として紹介している
BSE(Bovine Spongiform Encephalopathy)牛海綿状脳症又は伝達性海綿状脳症。
重症急性呼吸器症候群(SARS、Severe Acute Respiratory Syndrome)サースまたはサーズと発音する。新型肺炎。
トリインフルエンザ(高病原性トリインフルエンザ、旧称家禽ペスト、Orthomyxoviridae Influenza virus A)
2004年2?3月猛威をふるう。
関係府県の情報は、二転三転した。正確な情報を消費者に伝えることができなかった。
関係府県の情報の発表が後手後手に回った。BSEの反省を全く生かせていなかった。
アスベスト問題(石綿問題)
たばこ規制枠組条約(2005年2月27日締結の多数国間条約。世界初の公衆衛生分野における条約[5]
健康増進法の制定(2002年8月2日)