2009年07月02日

1333年に京都において後醍醐天皇が

1333年に京都において後醍醐天皇が元弘の変で蜂起すると、少弐氏や大友氏などが鎮西探題の北条英時を攻撃する。鎌倉幕府が滅亡後に後醍醐天皇の建武の新政が成立し、後に足利尊氏は新政から離反し、尊氏は京都での戦いに敗れて九州へ逃れる。少弐氏らは尊氏を迎え、宮方の菊池武敏らを多々良浜の戦いで破る。尊氏は九州で体勢を整えた後に一色範氏・仁木義長らを足利勢力として残し、京都に上り、室町幕府を開く。
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後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れて南朝を開き、宮方の武将に自身の皇子を奉じさせて各地で南朝勢力の集結を呼びかけ、九州には懐良親王が宇都宮貞泰に守られて派遣され、菊池氏に奉じられる。懐良親王は明から倭寇鎮圧の要請のために派遣された使者を迎え、「日本国王」として冊封されて明の権威を背景に勢力を広める。また、足利家では観応の擾乱と呼ばれる内紛が発生し、尊氏の側室の子である足利直冬が九州で尊氏と敵対して戦う。

中央では南朝勢力は衰微し、幼い3代将軍足利義満を補佐した細川頼之が今川貞世を九州の南朝勢力討伐のために派遣すると懐良親王も博多、大宰府を追われ、貞世の働きで九州の南朝勢力は鎮圧される。貞世は九州で独自の勢力を築いたため義満に排除され、その後は大内氏が台頭する。

応仁の乱以後は少弐氏は衰退し、戦国時代には大友氏、大内氏、島津氏などが戦国大名に成長する。

2009年06月13日

作用素環論(さようそかんろん)

作用素環論(さようそかんろん、theory of operator algebras)とは、作用素環とよばれるクラスの位相線型環を主に研究する数学の分野である。研究対象の直接的な定義からは複素数体上無限次元の線型代数学と言え、普通関数解析学に分類されている。しかし、その手法や応用はいわゆる代数・幾何・解析の諸分野に幅広くわたり、アラン・コンヌが提唱する非可換幾何の枠組みを与えていることでも特筆される。

作用素環とは普通ヒルベルト空間上の有界線型作用素(連続な線型写像)のなす複素数体上の線型環に適当なノルムによる位相を定めたもので、随伴作用 (adjoint operation) とよばれる対合変換 (involution) で閉じたもののことを指す。この随伴作用は複素行列の共役転置作用をヒルベルト空間上の作用素について考えたものであり、有限次元の線型代数学と同様に自己共役作用素やユニタリ作用素が理論の展開に重要な役割をはたす。主要な作用素環のクラスとしては、局所コンパクト空間上の複素数値連続関数環の「量子化」を与えていると考えられるC*-環や、可測関数環に対応するフォン・ノイマン環があげられる。それ以外にも、考える作用素環の無限性をとらえる非有界(自己共役)作用素も決定的な役割を果たしているし、多様体上の微分構造に対応するより繊細な構造の位相環と、それらに対するドラーム・コホモロジーの類似物なども研究されている。
アジアの美術
よの付く言葉
スポーツのあゆみ
くの付く言葉
名犬マルチーズ
雨模様
猫ニャン
柴犬について
生命の誕生
りんごのほっぺ
版画
オークション
映画館
射撃
応用数学
トリックアート
証券取引所
乗馬
高血圧症
ゲートボール

このような作用素環が可換になったり I 型とよばれる簡単な構造を持つ場合にさまざまな(作用素環以前の)古典的な対象が現れ、作用素環の構造が複雑になるほど古典的な数学では捉えにくい複雑な状況が表されていると考えられる。作用素環論の主な目標として、このように作用素環によって「非可換」化・量子化された幾何的対象を表現し、通常の図形と(可分)位相群などとを統一的に理解することや、それらに対するホモロジー・コホモロジー的な理論(K理論)の構成と理解などが挙げられる。

1930年代のマレーとフォン・ノイマンのフォン・ノイマン環に関する一連の論文や、1940年代のゲルファントとナイマークによるC*-環に関する研究が作用素環論の始まりだといわれている。可換環と局所コンパクト空間の圏の同値性を与えるゲルファント・ナイマークの定理はアレクサンドル・グロタンディークによるスキームの概念にも影響を与えている。1970年代に富田・竹崎理論を駆使してコンヌが III 型フォン・ノイマン環の分類をほぼ完成させた。1980年代にはヴォーン・ジョーンズによって部分因子環(subfactor;)の理論と、その派生物としてトポロジーにおける結び目の不変量を与えるようなジョーンズ多項式が得られた。一方で作用素環はそのはじめから数理物理(特に量子力学)の定式化に使われることが意識されており、現在でも物理学とのあいだに活発な交流がある。

2009年06月09日

日本に初めて、公衆衛生技術者の養成訓練と

日本に初めて、公衆衛生技術者の養成訓練と公衆衛生に関する機関として米国ロックフェラー財団の支援により、昭和13年3月29日に国立公衆衛生院(厚生省)が創設(公衆衛生院官制の公布)された。その後、公衆衛生技術者の養成訓練と公衆衛生に関する機関として活動を続けてきた。[1]
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1923年(大正12年)9月1日:関東大震災後、米国ロックフェラー財団より、災害地復興援助の一部として公衆衛生技術員の養成訓練機関開設設立援助の妥当性、実現性に関する非公式連絡が有り。[1]
1930年(昭和5年):公衆衛生院及び学生の臨地訓練機関としての都市及び農村保健館の設計図と共に公衆衛生院の計画案を米国ロックフェラー財団へ送付した。これらの計画案は、米国ロックフェラー財団に於いて検討された結果、遂に了承されることとなり、次いで建築設計の実施案の作製に着手することとなった。[1]
1934年(昭和9年):内務省内に公衆衛生技術員養成機関建設委員会が設けられ、建設に関する一切の事務を処理することとなった。全施設(公衆衛生院の建物、設備、器具、機械、図書並びに両保健館の建物その他とを併せた施設)に対する米国ロックフェラー財団の経済的寄与は総額350余万ドルに達した。[1]
1937年(昭和12年):公衆衛生院及び都市、農村両保健館の建物、器具機器、図書、等の準備が完了し、米国ロックフェラー財団より、建設委員会を通じ、公衆衛生院は日本政府に、都市保健館は東京都に、農村保健館は埼玉県に寄附された。[1]
1938年(昭和13年)3月29日:国立公衆衛生院(厚生省)が創設(公衆衛生院官制の公布)された。また、東京帝国大学名誉教授林春雄が初代院長となった。発足時の教授は、野辺地慶三博士(初代疫学部長)、斎藤潔博士(初代小児衛生部長、創立15周年記念誌編集委員長、第三代国立公衆衛生院長)、石川知福博士(初代環境生理科長、昭和23年東京大学医学部初代公衆衛生教授)、川上理一博士(初代衛生統計学部部長)があたった。[1][2]
国立公衆衛生院の誕生までには、当時の内務省衛生局、ついで厚生省の当事者のなみなみならぬ苦心があったことはいうまでもないが、特に建設委員会幹事野辺地慶三博士(国立公衆院発足時に伝染病研究所疫学研究室は、国立公衆衛生院疫学部として、新発足することとなった。初代疫学部長には、野辺地慶三博士が就任した。伝染病研究所疫学部研究室時代は、その性格上微生物関係の研究は、直接行っていなかったが、新設の疫学部は、この方面の研究も併せ行うこととなった)の献身的な努力に負う所が大であった。[1]野辺地慶三博士は、東京帝国大学医科大学を卒業後、伝染病研究所に入り、コレラ菌の血清学的分類法を発見し、この業績は、現在でも適用されている。[3]
1940年(昭和15年)12月に厚生科学研究所に改められ、昭和17年11月に厚生省所管の全研究機関と共に厚生省研究所に統合された。終戦後の昭和21年5月に元の公衆衛生院に戻った。[1]
国立公衆衛生院 創立15周年記念誌の序文において国立公衆衛生院の古屋 芳雄 二代院長が下記の通り述べている。[1]
本院の現在のあり方、またあるべき方向を決定するためには、本院がいかなる経緯を経てここに到つたかを知る必要がある。……例えば、本院の運営が多数の先輩諸士の援助によつて漸く軌道に乗った如くみえた後でも本院がいかに多くの難関に逢着せねばならなかつたか、特に曠古の大戦争の余波をうけて、度重なる組織の変更に逢い、本院職員がいかに苦闘をつづけねばならなかつたかも本誌に戴するところの本院官制の変革を見れば、これを偲ぶことが出来るのである。

本院は今漸く本院の当然あるべき姿に復帰し、本院のもつ16のコースはすでに7千の卒業者を出し、また多数の責重な研究成果の累積を見ているのであるが、その何れもが本職員の日々の精進苦闘の痕跡である。従つて本院がこの長い年月を通して到着した今日の態勢が容易に動かすべからざるものであること、況んや外部からの一時的な思い付きで簡単に動かしてならないものであることは、この記念誌を読む人のひとしく感ずるところであろう。

といって私たちは徒らに過去を尊重し、現状に甘んじようとするものではない。本院の主な事業が、国の機関に働いている公衆衛生技術者の養成訓練にある以上、それは時代の動きと政治情勢の変化に応じで改められねばならないのは勿論である。然しそのためにも過去の私たちの経験というものは大きく物をいうのである。この記念誌はそうした場合にも役立つことを私は信じでいる。

1965年(昭和40年)に世界保健機関(WHO)は、国立公衆衛生院のDiploma in Public Healthを諸外国の公衆衛生大学修士M.P.H.と同等のものと認め、「世界公衆衛生大学年鑑」に収録している。[2]
世界保健機関は国立公衆衛生院を「School of Public Health(公衆衛生大学院)」として紹介している

BSE(Bovine Spongiform Encephalopathy)牛海綿状脳症又は伝達性海綿状脳症。
重症急性呼吸器症候群(SARS、Severe Acute Respiratory Syndrome)サースまたはサーズと発音する。新型肺炎。
トリインフルエンザ(高病原性トリインフルエンザ、旧称家禽ペスト、Orthomyxoviridae Influenza virus A)
2004年2?3月猛威をふるう。
関係府県の情報は、二転三転した。正確な情報を消費者に伝えることができなかった。
関係府県の情報の発表が後手後手に回った。BSEの反省を全く生かせていなかった。
アスベスト問題(石綿問題)
たばこ規制枠組条約(2005年2月27日締結の多数国間条約。世界初の公衆衛生分野における条約[5]
健康増進法の制定(2002年8月2日)

2009年04月25日

ブリテンの伝説

293年、コンスタンティウスはボノニア(現ブローニュ=シュル=メール)近くでカラウシウスの軍団を破った。カラウシウスは、ブリタンニアとガリア北部で286年に自ら皇帝を僭称していた。この後、カラウシウスは会計官アレクタスに殺害され、代わってアレクタスがブリタンニアを支配するようになったが、296年にコンスタンティウスが送った近衛兵隊長アスクレピオドトス(en: Asclepiodotus)に敗れて落命し、ブリタンニアのローマ支配が復元した。
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同じく296年、コンスタンティウスはガリアの都市リンゴネにおいてアラマンニ族とも戦った。彼は都の中に閉じ込められたが、6時間後に兵に救出され、敵を打ち破った。[6] このような戦いによって、ライン川沿い国境の守りが固められた。

ディオクレティアヌスの健康が崩れたため、ディオクレティアヌスとマクシミアヌスは305年に共同皇帝の座を下り、代わってコンスタンティウスとガレリウスとが共同皇帝となった。コンスタンティウスは西側の帝国を支配し、ガレリウスは東側を支配した。副帝にはフラウィウス・ウァレリウス・セウェルスとマクシミヌス・ダイアとが任命された。副帝の座を狙う息子コンスタンティヌスは、父のガリア・ブリタンニア戦役に同行した。[7] コンスタンティウスは、306年にブリタンニアのヨークにおいて逝去した。そして息子コンスタンティヌスは、軍事力に支えられて、皇帝となることを宣言した。[8]

コンスタンティヌス大帝の父として、キリスト教ではコンスタンティウスにまつわるいくつも伝説が語られてきた。エウセビオスの『コンスタンィヌスの生涯』によると、父コンスタンティウス自身は非キリスト教徒を装っていたが実はキリスト教徒で、ディオクレティアヌスの副帝だった時代にも、皇帝によるキリスト教迫害には加担しなかったという。[9] さらに、彼の最初の妻ヘレナ(コンスタンティヌス大帝の生母)については、聖十字架の発見をはじめ、多くの伝説が残されている。

コンスタンティウスのブリテンでの活躍は、ブリテンの中世の伝説に残されている。モンマスのジョフリーが書いた『ブリテン列王伝』(1136年)によると、ブリテンの王位がアスクレピオドトスからコルチェスターのコール王に奪われた後、ローマ元老院の使節としてコンスタンティウスがブリテンに派遣された。コール王はコンスタンティウスに服従し、ローマに年貢をささげることを約束したが、そのわずか8日後に亡くなった。コンスタンティウスはコール王の娘ヘレナと結婚してブリテンの王となった。2人の間に息子コンスタンティヌスが産まれ、11年後にヨークで父が亡くなった後にブリテン王位を継いだ[10]。 なお、ヘレナがブリテン生まれということは、これ以前にハンティンドンのヘンリーが主張しているが、コンスタンティウスはブリタンニアに出征するより前にヘレナと離婚しており、歴史学的な裏付けはない。

2009年04月08日

即興

即興(そっきょう、英:Improvisation)とは、型にとらわれず自由に思うままに作り上げる、作り上げていく動きや演奏、またその手法のこと。インプロビゼーション、アドリブともいう。ただしインプロビゼーションとアドリブを厳密に区別する者もいる。一般には、音楽・ダンス・演劇の世界において使用される語。

形式による制約よりも、演奏時・演舞時の知覚を優先とする。 音楽・ダンスなどにおける創造の源流でもあり、作品制作時においても深く関係する。

クラシック音楽における即興 [編集]
即興は、音楽の歴史の中の草創期から、音楽の中の欠くことのできない部分の1つであった。過去1000年に渡って、西洋のクラシック音楽においてとても重要な要素であった。フラメンコやピグミーなどのアフリカの音楽、カルナータカ音楽(en:Carnatic music)やヒンドゥースターニー音楽などの東洋のクラシック音楽、ラップのような現代の音楽、西洋クラシック音楽の一時期のスタイル古典派音楽(カデンツァ、通奏低音参照)など、様々な伝統的な音楽にフィーチャーされてきた。

いくつかの例 [編集]
たとえば中世のオルガン音楽のオリジナルスコアでは、通常、即興や潤色の指示がされていた。そこで使われたスケール(音階)のいくつかは、いまジャズで使われている即興における法則のいくつかと同じものである。
中世、西暦1000年から1300年頃、オルガン音楽の中の数パートに単旋律聖歌(歌)が入れられ始めたとき、1つかそれ以上の歌のパートは通常即興で歌われ、楽譜に書かれたメロディラインの周りを、上に下に行き来しながら自由な旋律を歌った。
バロック音楽の時代(1600年 - 1750年)、古典派音楽の時代(1750年 - 1830年)、ロマン派音楽の時代(1830年 - 1900年)を通じて、即興は繁盛した。とりわけ、オルガンや、ピアノや、ハープシコードのようなキーボード奏者にとって花開いた。バッハ、ヘンデル、モーツァルト、ベートーベン、リスト、他のたくさんの有名な作曲家、巨匠と呼ばれるピアニストやオルガン奏者たちは、即興の技術に優れ、その日々を、即興的な時代、とも呼ばれる。
多くのクラシック音楽の楽譜は即興のセクションを含む。たとえばバッハやヘンデルのキーボード組曲の前奏曲は、単にコード進行から成っている。演奏家は、これをベースとして即興を演じた。

ジャズにおける即興 [編集]
ブルース、ジャズ、ブルーグラスは、即興を用いる音楽としてよく知られている。即興は“make up a song about bicycles”や“このコード変化を用いて”などといった一定のルールの強制とともに成り立った。あるいは、全くルールのない、フリー・インプロビゼーション(自由即興)として在った。

1950年代から、その時代のコンテポラリーの作曲家たちは、高い創造性と、いくつもの音をほのめかした、不明確であいまいな楽譜をテクニックで読み取って演奏する即興を、演奏家に要求した。カリフォルニア大学の Lukas Foss の Improvisation Chamber Ensemble や Larry Austin の New Music Ensemble、Ann Arbor の the ONCE Group、the Sonic Arts Group、the San Francisco Tape Music Center といったジャズアンサンブルグループが現れた。後者3つのグループは、ツアーやコンサートなどで自資金を賄えた。それらの演奏の中には、Foss の「Time Cycles」(1960年)や「Echoi」(1963年)が含まれていた。(Von Gunden、1983年、p.32)

他の作曲家たちは、Pauline Oliveros、テリー・ライリー、フレデリック・ジェフスキー、Karlheinz Essl、クリスチャン・ウォルフの即興とともに仕事をした。

音楽的な即興は、臨床的な即興(en:clinical improvisation)の形で、音楽療法 のテクニックとして広く使われている。

ロック音楽における即興 [編集]
ジャズ音楽における即興様式の興隆にともない、ロック音楽においても即興は取り入れられた。有名な例では、クリーム、グレイトフル・デッド、レッド・ツェッペリン、キング・クリムゾンなどのバンドがある。

出典 [編集]
Von Gunden, Heidi(1983年)。 The Music of Pauline Oliveros。ISBN 0810816008

演劇 [編集]
即興劇 参照。
即興は、多くの俳優にとって、一般的なツールである。それは劇と、高校や大学の演劇のクラスを繋ぎとめるものである。群を抜いて優れていると目される コンスタンチン・スタニスラフスキーの演劇理論によると、俳優があるシーンを即興で演じるには、彼(彼女)自身の直感を信じられなければならないという。スタニスラフスキーによれば、俳優は、演じるキャラクターの内なるまたは外なる刺激への反応を、彼(彼女)自身の直感によって決めなければならないという。即興を通じてこそ、演技・演じる動きについて、 mugging や indicating を使うかわりに、俳優は自身の直感を信じることを学ぶことが出来る(メソッド演技法 参照)。即興はまた、役への集中にも有用である。明らかに、何が起ころうとも許される環境では、難しく、緊張の多い状況であっても、俳優は一貫して集中力を保ちやすい。集中は、演劇を学ぶ授業(クラス)と共同研究(ワークショップ)を繋ぎとめるものである。集中は、俳優がシーンやアクションに集中しやすくする核心である。即興を維持し続けることに失敗した俳優は、blocking といわれる。

ダンス [編集]
Contact Improvisation の形式が作られたのは30年前になり、いまでは世界中で練習されている。Contact Improvisation は、もともとは1970年代のスティーヴ・パクストン(en:Steve Paxton)のen:movement studiesから生まれたもので、 Judson Dance Theater によって続けられた探求によって開発された。重量、パートナー、演技を分かち合う、ことに基づくもので、予期しない成果を生む。

日本における即興舞踊 [編集]
能は元来はすべて即興で演じられるものであり、舞は囃子とともに創出されてきた経緯がある。世阿弥の時代には型は重視されていなかったといわれている。歌舞伎においても、流派によっては日本舞踊においても即興感覚は創造性ある舞台に必要とされる。近年では前衛舞踊家土方巽を中心としたいわゆる舞踏において、即興は重要な技法のひとつとされ、即興をスタイルとする代表的な舞踏家に大野一雄、笠井叡、田中泯、岩名雅記らがいる。 現代ではコンテンポラリーを含む独自の技法で踊る現代舞踊手たちによって即興舞踊の公演が増えている。その場合、楽曲を流して背景音とすることの多い舞踏と違って即興演奏家と共演することも多い。また背景曲なしの無音で即興に踊る舞踏家やダンサーもいる。

映画 [編集]
映画監督 マイク・リー は、映画のキャラクターやストーリーラインを作るのに、何週間にも渡る長々とした即興を使う。彼は物事をどのように捉えるかのアイデアのスケッチをいくつか用意して映画を撮り始め、物語は作られていくが、役へ託した彼の意図は、俄かには明らかにされない。キャラクターが自身の宿命を知り、スクリーンには映し出されていない彼らの人生の別の重要な側面も含め、運命に対してどう振る舞っていくかが、次第に明らかにされていく。最後に、映画は、即興を撮っていたときの対話やアクションを描き出して終わる。

コメディ [編集]
en:Improvisational theatre#Improvisational comedy 参照。
即興はまた、世界中の劇場で演じられている。ドラマチックな意図で演じられることもあるが、多くの場合、コメディの要素として演じられる。最も有名なものは、シカゴのセカンド・シティ(The Second City)である。セカンド・シティには、Viola Spolin や Paul Sills、Del Close、Keith Johnstone のような、即席に演じる演じ方のメソッドを作ったパイオニア達がいた。彼らはしばしば、驚くべきキャラクターと態度で、おかしなシーンを大胆に即興で演じた。

テレビ [編集]
1990年代、「Whose Line Is It Anyway?」というテレビ番組は、 ショートフォーム(en:Improvisational theatre#Improvisational comedy)というコメディの即興形式を普及させた。オリジナルはイギリスのものだが、後にアメリカで Drew Carey をホストに迎えた番組でリバイバルし、人気が出た。最近では、HBO の「Curb Your Enthusiasm」(ジェリー・サインフェルド 主演、共同制作 Larry David)や Bravo シリーズの「Significant Others」などが、即興を使って、ドラマチックな味わいを強めながら、長時間番組を作りだしている。即興に基づくまた別の番組には i の「World Cup Comedy」がある。カナダには、オーストラリアのテレビ番組シリーズ Going Home を基にした Global Television のメロドラマ「Train 48」が、即興の形式を使い、プロットに書かれたアウトラインを元に、対話劇で俳優が即興を演じている。

ロールプレイングゲーム [編集]
いくつかの ロールプレイングゲーム(テーブルトークRPG、コンピュータRPG)は、しばしばうわべだけの即興を含む。プレイヤーが演じるキャラクターは予め決められているが、他のプレイヤーやゲームの中で起こるイベントへの反応は、即興を含む。そのキャラクターの演技の深みに興味を示す人たちもいる。純粋に戦闘シーンや game mechanic を楽しむ人たちがいる一方で、それよりもキャラクターの情熱的で機知に富んだ当意即妙のやりとりに感情移入し、凝った筋書きを楽しむ人たちがいる。

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2009年03月24日

名鉄3400系電車

3400系電車(3400けいでんしゃ)は、名古屋鉄道(名鉄)が1937年に製造した特急用の電車である。通称「いもむし」・「流線」。

またここでは、同時に製造された850系(通称「鯰(なまず)」)についても記述する。

製造に至るまで [編集]
現在の名古屋鉄道は、元々神宮前駅を拠点として名古屋以東に多くの路線を保有していた愛知電気鉄道(愛電)と、押切町駅(当時の名古屋ターミナル、1941年廃止)をターミナル駅にして津島・岐阜・犬山方面へ路線を延ばしていた名岐鉄道(名岐)が1935年に合併して成立したが、押切町と神宮前の間は線路がつながっておらず、また架線電圧も旧愛電(「東部線」と総称された)が1500V、旧名岐(同じく「西部線」と総称された)が600Vと異なっていたため、依然運転系統はまったく別ものであった。

しかし合併したからには、統一した事業を行うことが社員精神の垣根を払う必要性などからも重視されるようになり、折しも国鉄EF55形電気機関車・国鉄52系電車など「流線型」を採用した車両が流行していたため、名鉄では看板車両として現在の名古屋本線に当たる路線のうち、愛電が建設した豊橋線用の特急車としてそれを採用した3400系を、名岐が建設した名岐線用の特急車として850系を新造して投入することになった。

概要 [編集]
3400系は、スカート(防護板)と(製造段階では連接車にする構想があったため)車体幅貫通幌を装備した流線型車体で、車内は転換クロスシートであり、回生ブレーキや自動進段制御器(AL)を備えるなど、並行する国鉄線などに対抗するためもあってか高性能かつハイレベルな車両として登場した。その風貌は、「流線」のあだ名がつくほどシャープなものであったという。また側窓は上隅にRが付いた優美な一段窓で、この後3550系前期車まで戦前型の標準となった。

制御機器は東洋電機製造製のES-515であり、回生ブレーキや自動進段制御器に対応するための高水準のものであった。また、主電動機は東京芝浦電気(現・東芝)製のSE-139を採用。これは定格出力112.5kW(150馬力)の高回転型モーターで、実用最高速度は110km/hとなった(認可上は95km/h、のち100km/h)。台車はコロ軸受けのイコライザ式D-16を採用し、高速運転や保守整備の簡略化に功をなすこととなった。

一方の850系は、名岐鉄道時代に投入されたモ800形電車の仕様をベースに設計され、車内は固定クロスシートであり、スカートは装備していなかった。その形状と、当初先頭部に左右それぞれ4本(後に3本)の髭が引かれたような塗装をしていたことから、「鯰(なまず)」と呼ばれることになった。流線型前面のため、側面の客扉位置をモ800形(片運転台化後)に比べて窓1つ分後方にずらした設計であった。1948年の西部線(旧名岐鉄道線)昇圧時に1500V対応へ改造され、一時期はモ800形やモ830形を中間に挟んだ3両編成として運行していた。またク2350形がTR14台車を履いていた時期もあったが、最終的にD-16に復している。

3400系・850系とも、吊り掛け駆動・AL車(間接自動制御車)である。

運用 [編集]
3400系は2両編成3本、850系は2両編成2本が投入され、名鉄の特急を象徴する車両として活躍を開始する。その後、1944年に西部線と東部線が金山橋駅(現・金山駅)でつながり、1948年に西部線の電圧が1500Vに昇圧されて西部線と東部線が統合されると、850系もそれ対応に改造された。その後新型車両が投入されると、3400系・850系はローカル運用に就くようになっていく。850系は戦時中に800系と共にロングシート化されたが、3400系の転換クロスシートとスカートは堅持された。

1950年に3400系は中間電動車モ3450形を増備して3両固定編成へ増強され、1953年にはさらに中間付随車サ2450形(台車はFS-13)を増備して4両固定へと編成が延ばされた。同時期に回生ブレーキの撤去(主制御器形式ES-532)と歯車比の変更(2.64→3.21)を実施し、機能的には他のAL車と同一になった。また側窓が2段化されている(増備中間車は当初から2段窓)。

1967年から1968年にかけて、3400系は正面の曲面ガラス窓を木製の窓枠で3つに区切られた構造から、連続窓風の縦桟を細くした固定窓に改造し、車体幅貫通幌を廃止するなど、大規模な車体更新工事を受ける。更新後の前頭部は当時航空機のようだと形容された。また、製造当初から長年に亘って正面にジャンパ栓の装備がなく、他のAL車との総括制御(連結)はできなかったが、1984年にジャンパ栓を増設し、他のAL車4両編成(通称OR車、3900系・7300系)と共通運用となり、6両(5両)以上の連結運転もこなせるようになった。850系との混結という夢の共演も実現している[1]。

1980年には850系1編成(851F)が廃車となり[2]、元852Fが851Fに改番され生き残った。当初は元851Fが南知多ビーチランドで静態保存を兼ねて食堂として利用されていたが、海に近いため車体の傷みが激しく、いつしか撤去され現存しない。 さらに1988年には東海旅客鉄道(JR東海)が快速列車を増発するなどして名鉄線の脅威になり始めたことから、これに対抗するため、新型特急車1000系を投入して旧型車両を淘汰することになり、850系と3400系も全車廃車されることになった。しかし3400系に関しては、デザインが優れているなど名鉄史上の名車であることから、最も状態の良かった3403Fが、車号を3401-2401に変更の上*、2両編成に短縮して残ることになった。1993年には鉄道友の会エバーグリーン賞を受賞、1994年には冷房化改造を受ける[3]。

*本来の3401Fの廃車留置時、3403Fに転用するため、車号の「1」のみが欠き取られていたのが確認されている。

しかし2001年、広見線・小牧線を最後に車両保守の部品が無くなったなどの理由で定期運用を離脱し、2002年8月31日のさよなら運転をもって廃車となった。

最晩年には、車両延命と営業運転の継続に必要な最小限の改造として、車内冷房の装備と台車を7300系の廃車発生品(FS-36)に変更したが、それに伴ってスカートに室外機用の放熱孔が開けられ、台車交換のために切り欠きも大きくなり、車体内外に少なからぬ変化・影響を与えたことから、一部のファンからは「保存車両には不適切な行為」との声も聞かれた。

なお3400系の塗装は、1937年2月の登場時はグリーンのツートンカラー、1953年8月からは当時優等車両の標準色であった「赤クリームとチョコレート」(ライトピンクとダークマルーン)、1971年6月からは「ストロークリーム(クリームイエロー)に赤帯」、1976年6月からは「スカーレット(屋根周りのみクリーム)」、そして1993年2月にはリバイバルとして登場時のグリーンのツートンカラーへと、何度か変更された。

2004年以降、3400・3450の形番は、名鉄の本線系路線において初のステンレス車である3300系(3代)に、2400・2450の形番は、中部国際空港アクセス用特急車2200系の一般席車両に、それぞれ継承されている。

廃車後はモ3401・ク2401共に舞木定期検査場にて留置(保管)されていたが、このうち制御車のク2401は2006年5月に名電築港駅で解体され、現存しない(電動車のモ3401は舞木定期検査場で引き続き保管)。

編成 [編集]
3400系
モ3400-サ2450-モ3450-ク2400   登場時・晩年 モ3400-ク2400

850系
モ850-ク2350   1950年?1960年頃 モ850-モ830-ク2350

ちぇりもや 変わら ラビリティ サーミ サフィニア マンダ ロイワ モナムール セーター チたねもみ セイロ スパチュラ カーバ スキー トンカツ オーバ スパート ディーエー 激しい 地球 しらあや タンニン デラッ チャペル ブレスト オリーブ ウィン べにいろ バラード マレイド せっつ フローシー ファイター レランス ユート 甚兵衛 スウィング バイオ アーコ のつ国内 レトリ パッション セレブ オペック ケルビン メンヒル にらめっこ サンゴ とまこまい イアク


2009年03月08日

フランスの歴史

古代ローマにおいて、ほぼ現在のフランスにあたる地域はガリアと呼ばれており、ケルト人が居住していたと考えられる。このことは、紀元前58年から紀元前51年にかけてガリア遠征を行ったガイウス・ユリウス・カエサルによる「ガリア戦記」などからもうかがえる。こうしてローマの遠征を受けた後は、いくつかのローマ風都市も建てられ、ローマ化が進んでいった。

4世紀後半より始まる本格的なゲルマン人の移動にともない、ゲルマン人の一派であるフランク人がガリアに定住した。481年にクローヴィスがフランク諸族を統一してメロヴィング朝フランク王国を建国すると、旧ローマ帝国領であるガリアの現住民がカトリックを信仰していたため、統治を円滑に行うことも狙ってカトリックを受容した。メロヴィング朝においては、徐々に宮宰を務めるカロリング家が台頭していき、8世紀前半の宮宰カール・マルテルは、イベリア半島からヨーロッパ進出を図っていたイスラーム勢力(ウマイヤ朝)をトゥール・ポワティエ間の戦いで撃破し、キリスト教世界の守護者としてその名声を高めた。

当時、聖像禁止令などをめぐり東ローマ皇帝(ビザンツ皇帝)との対立を深めていたローマ教皇は、新たな政治的庇護者を必要としていた。こうした中、イスラーム勢力の侵入を撃退したフランク王国に教皇は着目し、フランク王国の実権をにぎるカロリング家との接近を図った。カール・マルテルの子ピピン3世(小ピピン)は、ローマ教皇の支持にも助けられて、カロリング朝フランク王国を創始した。この返礼として、北イタリアのラヴェンナ地方を教皇に寄進したことは、ローマ教皇領の起源となった。さらにその息子であるシャルルマーニュ(カール大帝)は、ザクセン人の討伐・イベリア半島への遠征、アヴァール人の撃退、ロンバルド王国の討伐などその名声を高め、800年にローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の冠を受けた。シャルルマーニュは、エクス・ラ・シャペル(独語:アーヘン)の宮廷にブリタニアから学僧アルクィンを招き、古代ラテン語文献の振興(カロリング・ルネサンス)を推進するなど、文化的な西ヨーロッパ世界の統一にも寄与した。エクス・ラ・シャペルにおける学術的諸成果は、フランス各地の教会・修道院にも影響を及ぼしていった。
ルリマ カントリー おいずり ファラオ オーチャ バイバル ロカアォ パーカー トリミン ティラピ オール リージョ ダリア ドゥー ラーゲ ジフ スピコン プロテーゼ ツィリング アフロ 月下美人 シュート ソムリ レイド エアポ ピンポ レーキ パナビ いまかね ドレッ あかんち モルツ カイア スキッ チャートポ ベガス 紅葉 華ごころ リスト サーボ サイト紙燭 テレメ パステ コース オーナブリ ダット サーチアウト すなのみ ブールマ リーダー

西フランク王国
シャルルマーニュの息子ルイ1世(独語:ルートヴィヒ1世)には3人の息子がおり、843年のヴェルダン条約によってフランク王国の所領が三分割された。その後、870年のメルセン条約で領土の見直しが行われ、現在のフランス・ドイツ・イタリアの礎となる西フランク王国、東フランク王国、イタリア王国が成立した。この頃の西フランク王国は、北方からのノルマン人(ヴァイキング)の進出に苦慮しており、10世紀初頭にはノルマン人のロロにノルマンディーの地を封じた(ノルマンディー公国)。後にノルマンディー公がイングランドの王位に就いたことで、その後の英仏関係は様々な紛糾が引き起こされた。

2009年02月20日

ボラー連邦

ボラー連邦(-れんぽう)は、『宇宙戦艦ヤマトIII』に登場する架空の恒星間国家。
せいぜつ デスマ バグパイ セミナー ユビキノン バラック フロック ダバッグ パンパ ソドミー リング ウォーム ジョーズ ドーミ クロスバ サイバー バンガ ハミング メンソール しろかもめ ポトス ロリズム ニング ヨヒン ハイク ナビ雑草 レモネード ダウラギ イロード テーション テンショ フルベ ビーフシ マーメ ステイ レリック げんこつ スレーブ フラグ トップモー ランドレ チュクチ モノマー ニーズ トラポコ テンポ エニグ ギャラリー ラスト マーキュリ

連邦首相はベムラーゼ。強大な科学力をもった伝説的な恒星間国家シャルバートの統一が消失した後、一時は、オリオン腕の反対側に、銀河系の1/2以上の恒星系を支配する恒星間国家をつくり上げた。23世紀初頭、元ガミラス帝国総統デスラーが主導したガルマン人の解放戦争で、ガルマン・ガミラス帝国が建国され、同国軍の攻勢が始まったため銀河系中心部の多くの恒星系を失い、支配領域は、銀河系の30?40%ほどになった。

人名はロシア人風、連邦のネーミング、酷寒の本星、ソルジェニーツィンの『収容所群島』を想起させるような酷寒な流刑惑星などの設定から、ソビエト連邦をイメージした設定と推察される。

ボラー連邦人
肌の色が水色であることを除けば、地球人と同様の姿をしている。ベムラーゼ、ボローズ、レバルスなどの初期設定のネーミング(ベムーリン、ボロゾフ、バルスキー)はロシア人風である。

ボラー連邦軍
船体基本色は青色を基調し、旗艦は赤い装甲をもつものが多い。戦艦の形状は、紡錘状とイモムシ状の中間の形態で水色のA、B 2タイプがある。ボラーチウム100という放射線を発する光線砲などの武器を使用する。赤軍風の物量に物を言わせた密集戦法を基本戦術とする。

宇宙戦艦ヤマトIII

主要会戦(海戦)
スカラゲック海峡星団
グスタフ中将率いるガルマン・ガミラス北部方面軍主力を壊滅させるも、ヤマトの波動カートリッジ弾と煙突ミサイル、波動爆雷の五月雨的な攻撃で本国第一、第二艦隊を失うことなる。
太陽系
最終回でベムラーゼ首相はデスラーを誘い出して斃すべく、自ら大艦隊を率いて太陽系に侵攻したが、デスラーの返り討ちに遭って戦死。

宇宙戦艦ヤマト 完結編
銀河系全土に発生した異変(異次元に存在する別の銀河系が、突如次元断層を破って出現、我々の銀河系と衝突。原因は不明)によってボラー連邦も壊滅的打撃を受けたとのナレーションがあり、ベムラーゼの没後も存続していたことが窺える。

以上で物語・作品・登場人物に関する核心部分の記述は終わりです。

主要人物
ベムラーゼ 連邦首相
ゴルサコフ  参謀総長
バルコム  本国第一主力艦隊司令官
ハーキンス  第8親衛打撃艦隊司令官

保護国バース星
ボローズ  総督
レバルス  警備隊長
ラム 宇宙艦隊旗艦 ラジェンドラ号艦長

所有艦船
戦艦Aタイプ
戦艦Bタイプ
デストロイヤー艦
大型空母
戦闘空母
ゴルサコフ艦
バルコム艦
ハーキンス艦
囚人輸送船

保護国バース星
ラジェンドラ号

2009年02月04日

幕府事務官僚の日記・筆録

最後に一番重要な、ベースとなる原史料「幕府事務官僚の日記・筆録」を、各将軍記毎の特徴と合わせて見ていくと次のようになる。
ハンモ サイクロ ジャイル ダゴン ローツェ 夕立ち クフルト マーガ 白菜 エゴイ シプリン ヒート サテラ 黄昏 あくび ぞくげん スコール おきなれ プリスクール トーラス ブルー オートオオ レモンピー 天永 リュード フキ ギアシ ルクセン ジャイロ サイド ジェット ダックス フレア 四天王 マンゴー ピアニスト モヒカン ナビむつ デザイン キュー きつき ストップ じょうさい ヒヤシンス シュミナ リフネ メゾネット イング ダッシュ リング

頼朝将軍記
ベースとなる原史料の種類・著者を推定することの最も困難な時期が、ちょうど源平合戦の時代、1180年から1184年頃である。この時期は非常に物語性が強く、読み物としても面白いが、それだけに原資料の姿が現れ難い部分である。この時代全般に渡って、いくつかの御家人の家に伝わる文書や家伝のようなもの、場合によっては「頼朝挙兵記」とでもいうような、既に出来上がっていた物語などが相当利用されていると推定されている。挙兵当時からの右筆として藤原邦通が知られるが、1184年頃から藤原俊兼、二階堂行政、大江広元、三善康信ら、朝廷に仕えていた中・下級実務官僚が相次いで鎌倉に下り、後に政所となる公文所や、問注所の担い手となる。その中で五味文彦は奥州合戦で軍奉行でもあった二階堂行政の筆録がベースと推定する。

頼家・実朝将軍記
二階堂行政の子で初めて政所執事となった二階堂行光の筆録をベースに、三善康信や、和田合戦で軍奉行であった二階堂行村の記録などにより補ったと思われる。ただし二階堂行光の筆録がベースであると言ってもかろうじて痕跡が確認出来るという範囲である。この頼家・実朝将軍記の時期は北条氏を正当化する曲筆が非常に多い。『明月記』が利用されているのもこの時代の部分である。

藤原頼経・頼嗣将軍記
読み物としても面白かった源氏三代将軍記と比べてその文章は大きく異なり、儀式に関する記事、天変地異、祭礼・祈祷に関する記事が多くなる。八代国治はそれを評して「叙事は平凡にして、文章も流暢ならず、日記を読むが如く無味乾燥にして興味少なし」[35]という。原勝郎は、建暦前後より延応の前後まで(1210年 - 1240年前後)、俗にいう尼将軍の時代から将軍藤原頼経の代、執権は北条泰時の時代については、諸家の筆録をベースに一人が編纂したように見受けられ、また源氏三代将軍記に比べれば信用に足るとする。そして延応前後より終りまで、つまりほぼ藤原頼嗣将軍記以降は筆録そのままだろうと考えた。現在までの研究ではそれは否定されるが、しかし原資料が比較的生の形で残っているということは確かである。この時期のベースとなった筆録については、五味文彦は恩賞奉行(恩沢奉行)の中原師員と、同じく恩賞奉行で承久の乱の軍奉行であった後藤基綱のものを中心とする。

宗尊親王将軍記
八代国治や原勝郎が指摘した文章・内容の「つまらなさ」が極まったのがこの時期である。しかし事実の記録としては逆に信頼度は高いといえる。五味文彦は、この部分は御所奉行の筆録が中心で、1263年(弘長3)7月5日までは二階堂行方、その後は御所奉行を引き継いだ中原師連の記録と推定している。

吾妻鏡の編纂者
直接の編纂者について、八代国治は政所と問注所の執事である三善康信の子孫(大田、町野)、大江広元の子孫(毛利、長井)、二階堂行政の子孫達ではないかとした。

問注所・三善康信の子孫
八代国治は『明月記』と『吾妻鏡』の突き合わせを行い、1211年(建暦1)11月4日条が『明月記』同年10月23日条を若干縮めて書いたものであることを発見する。更に翌年の1212年(建暦2)7月8日条には「たまたま造営の事有り。すべからく上臈の上卿宰相弁これを奉るべきか」と『明月記』同年7月27日条の丸写しがある。それらに「善信申して云く」とあるのは三善康信のことである。八代国治はこの2件とも三善康信の評、または献策と偽装されており、そのことからも三善氏の子孫たる町野・大田氏が『吾妻鏡』編纂の中心に居たのではないかと推測した[36]。

また、三代将軍源実朝が河野通信に与えたとされる御教書の記事は、1297年(永仁5)の永仁の徳政令に関わる偽文書を元に書かれたものであることは先に触れたが、その1205年(元久2)閏7月29日条にも「善信奉行す」とある。元となる偽文書が作成されてから編纂推定年代までは非常に短く、編纂者以外の創作が入り込む余地は無い為、三善氏の子孫が編纂者の一人として確実視される。

政所・大江広元と二階堂行政の子孫
大江広元の筆録からと思われるものには、同じ文章を分割したと思われる1209年 (承元3)10月15日条と1214年(建保2)5月7日条があり、行政では1186年(文治2)10月3日条などがある。顕彰した部分も確かに見られる。例えば大江広元では既に見てきた守護地頭の献策などである[37]。ただし既に「「守護地頭」の設置」で見てきたとおり、これは大江広元の顕彰ではあっても編纂者の手による曲筆とは言い切れない。従って顕彰記事の存在だけから広元の子孫の編纂への関与をいうことは出来ないが、これも先にも触れたとおり北条泰時が大江広元時代の記録を広元の孫の長井泰秀に送ったという記事があり、長井氏に伝えられたその記録が『吾妻鏡』編纂に利用されたであろうことは大正時代の頃から和田英松・八代国治らによって指摘されている。

二階堂行政の子孫については、その子二階堂行光の顕彰記事に1204年(元久1)9月15日条があり、行光が白河院の古事を語り「相州殊に御感」という。そのとき行光が語った古事は『十訓抄』1の24話にあるものと同じであることを五味文彦は指摘した。記事そのものが後付の創作である可能性はある。ただし五味も認める通り『十訓抄』の編者同様に行光もその古事を知っていたのかも知れず断定は出来ない。また『金槐和歌集』から収録したと思われるものに八代国治が指摘した1213年(建保1)12月19日条から翌20日条がある。二階堂行光と三代将軍源実朝の和歌のやりとりで、将軍実朝が「再三御感に及ぶ」という下りである。しかしその記事を『吾妻鏡』に加えたことに行光顕彰の意図が指摘出来ても、事実と相違する曲筆という訳ではない。三善康信の場合と比べれば非常におとなしいものである。とはいえ、二階堂氏は『吾妻鏡』の記事のベースと想定される筆録の著者に多数現れることと合わせて考えると、その編纂への関与は濃厚と推測される[38]。

五味文彦の研究と編纂者の推定
五味文彦は1989年に著した『吾妻鏡の方法』の章「吾妻鏡の構成と原史料」において、ベースとなる筆録に二階堂行政・二階堂行光、二階堂行村、後藤基綱、中原師員、二階堂行方、中原師連を推測した。そして2000年の『増補 吾妻鏡の方法』では次の2点のアプローチも加えた。

意図的な顕彰 - 実務官僚(文筆の家)では前述の通り三善康信、三善康連、二階堂行光、大江広元である。それ以外には得宗家を除くと北条時房、平盛綱、北条実時らである。
出産記事 - 得宗家嫡流を除けば北条有時、北条政村、北条時輔、北条宗政、北条時兼と、そこまでは北条一門ということで理解出来るが一人だけ文筆の家が混じっている。1222年 (貞応1)9月21日条に、二階堂行政の孫で、後に政所執事となる二階堂行盛に子が生まれたとある[39]。そのとき生まれたのは二階堂行忠であり、その行忠から政所執事を受け継いだのが孫の二階堂行貞である。
これに『吾妻鏡』の編纂推定年代を重ね合わせると太田時連がまず候補の筆頭として上がる。文筆の家ではもっとも露骨に顕彰されている三善康信の子孫で、1293年(永仁1)から1321年(元亨1)まで問注所執事であり、おそらくはその時期寄合衆でもあったろう。

次は二階堂行貞である。「ベースとなる筆録」に上がった二階堂行政、行光、そして出産記事に登場する行盛、行忠の系統・二階堂信濃家でこの時期に該当するのは行貞であり、行貞は1290年(正応3)の行忠の没後に22歳で政所執事に就任したが、3年後の平禅門の乱の直後に罷免され、ほぼ10年後の1302年(乾元1)に政所執事に返り咲いている。寄合衆にも同時に就任したと見なされる。

大江氏では長井宗秀が該当し、1295年(永仁3)時点から寄合衆にその名が見える[40]。その3人が幕府の主要ポストに顔を揃えるのは行貞が政所執事に返り咲いた1302年である。

もちろん「ベースとなる筆録」には中原師員・中原師連親子が推測されており、その子孫でこの当時政権の中枢にいた摂津親致や、三善氏の矢野倫景、北条氏では金沢貞顕や北条時村の元から少なくとも史料提供は相当なされていると見られるが、編纂への関与の程度は不明である。

『吾妻鏡』編纂の意図と背景

編纂の意図・「先例」
和田英松は1912年の「吾妻鏡古写本考」において、『吾妻鏡』編纂の意図について触れ、「此書の編纂は、幕府の記録を統一して、先例調査の機関に備えんが為にして、且つは開幕以来、久しく年序を経たるを以て、歴代将軍の実記編纂の必要を生じたるが故にて」と推定した。

鎌倉時代後期に、京・鎌倉を通じて見られた家業・家職の固定化は先例重視の「有職故実」の世界であり、平安時代中期以降の朝廷同様に、この時代の鎌倉幕府でも「前例」が重視されていく。益田宗は1977年の「吾妻鏡の伝来について」[41]において、その「先例」の具体例として京へ送り返された三代の元将軍の鎌倉退出の様子をあげる。『吾妻鏡』より後の時代の宗尊親王の子の7代将軍惟康親王の帰京は『とはずがたり』に描かれており、その前の三代と同様に一旦佐助ヶ谷に行きそこから京へ出発するが、将軍を御所から出すときに「先例だから」と逆輿(さかさごし)にして将軍を乗せたとあり、益田は逆輿だけでなく将軍を廃するときの一定の慣行が既に確立していたのではないかとする。

「家」の形成
そうした幕府中枢の事務官僚の実務的な要請に加えて、五味文彦は「混乱した時代に歴史を見直す必要が生まれ」たこと、と同時に「自らの家の流れを確認し、その正統性を主張する必要からも『吾妻鏡』の編纂は求められたに違いない」[42]と述べる。

平安時代の後期、院政期頃に形を成してきたいわゆる「イエ」の概念が、京の公家社会では家格の形成、家業・家職の固定化から、更には家芸の固定化にまで及んでいくが、武家社会の側にもそちらに向かわざるを得ない要因を抱えていた。分割相続による御家人の零細化である。そうした状況からの保身が嫡男による単独相続への傾斜、「家」「家督」の確立として現れる。それらが相まって得宗家の確立とそれを取り囲む北条庶流の家格の形成が、同時に文筆の家でもそれ以上の家格・家職の固定化が進んでいく。

『吾妻鏡』編纂時期に鎌倉幕府の政策を決定していたのは寄合衆であるが、その構成を知る手がかりに、1295年の太田時連の記録『永仁三年記』、1309年(応長1)の金沢文庫の古文書[43]などがある。これに1302年(乾元1)当時の引付頭人などから主要要人を加えて、それぞれの家が『吾妻鏡』の中でどう扱われているかをみると、北条一門の北条師時、北条時村とその孫北条煕時、大仏宣時とその子大仏宗宣、金沢貞顕、普音寺基時らの先祖は、生誕記事や顕彰記事で『吾妻鏡』の中にきちんと位置づけられていることがわかる。例外は本来得宗家に次いで家格が高いはずの赤橋家であるが、しかし赤橋義宗は1277年(建治2)に没し、嫡男赤橋久時はそのときまだ5歳。『吾妻鏡』編纂の中心時期とみられる頃には赤橋家は寄合衆は務めていない。

実務官僚としては、1295年(永仁3)の寄合出席者[44] に大江氏の長井宗秀、二階堂行藤、三善氏の矢野倫景らが見えており、1302年(乾元1)11月段階では二階堂行藤の後任として二階堂行貞が加わったと推定されるが、これら三氏の祖については既に見た通りである。 1309年(応長1)の寄合衆には、他に姻戚で安達時顕、得宗被官では長崎高綱、尾藤時綱らが見える。1302年(乾元1)当時の幕府要人には得宗被官は現れないが、その裏で得宗家を支える存在であったろう。その長崎氏の祖平盛綱には顕彰記事があり、尾藤氏は北条泰時の代に最初の家令として記されている。つまり1302年前後の幕府・得宗家を支える主要メンバーの家の形成が『吾妻鏡』の中にきちんと織り込まれていることがわかる。

編纂年の時代背景
編纂年代と推定される1300年頃はいわゆる「得宗専制」の時代である。村井章介は鎌倉幕府はこの時期、進むべき道が見出せなくなっていった[45]とするがその点を次ぎに見てゆく。

1284年(弘安7)4月に北条時宗が34歳の若さで病死したとき嫡男貞時はまだ子供であり、外戚と得宗被官、幕府の事務官僚のトップによる「寄合」が得宗権力を代行する最高決定機関となる。しかしその中での権力闘争が1285年(弘安8)11月の霜月騒動となって外戚安達氏が滅び、1293年(正応6)4月の平禅門の乱では成人した9代執権北条貞時が得宗家執事(内管領)の平頼綱を打つ。その後は貞時を北条庶流の名門と幕府の実務官僚らが取り囲んで政策決定を行っている[46]。
1297年(永仁5)に永仁の徳政令の発布がある。幕府の基盤は御家人であったが、この時期分割相続制により中小御家人は零細化し、貨幣経済の進展にも翻弄されて崩壊を初め、所領を手放す者も多く、幕府への「奉公」もままならなくなる。それに対し永仁の徳政令は所領を手放すことを禁じ、既に手放した所領も旧来の状態に戻すという御家人体制の維持に力点があった[47]。そうした先の見えない状況の中で『吾妻鏡』の編纂が開始されている。
1304年7月以前に『吾妻鏡』の編纂は未完のまま停止されたと見られるが、五味文彦は「歴史を振り返るよりも現実の歴史のほうがどんどん急動して、もう振り返って見ているどころではなくなった」からではないかとする[48]。1305年(嘉元3)には宣時の後に連署となったもう一人の重鎮北条時村を、得宗被官・御家人の一団が「仰ト号シテ」殺害する。嘉元の乱である。『保暦間記』によれば嘉元の乱の犯人は北条宗方とされるが、事態はそれほど単純ではなく、むしろ得宗貞時とその側近宗方らと寄合衆内の北条庶流の対立による抗争であり、結果的に仕掛けた貞時側が敗北したとの見方もある[49]。尚、「未完のまま停止された」と見る理由のひとつには頼朝将軍記の最後の3年が無いことが挙げられる[50]。鎌倉時代末期から南北朝時代に金沢文庫での作成と思われる目録にふられた巻数はこの3年を飛ばしている。それが散逸によるものか、あるいはそもそも編纂されなかったのかについてはそのどちらにも確たる証拠は無いが、益田宗はの中で「もともと編纂されたかどうか疑わしい[51]」とする。

吾妻鏡の諸本
吾妻鏡は金沢文庫にあった原本が小田原の後北条氏の手に渡り、それが徳川家康の手に渡ったと思われやすい。しかし現在の研究では、かなり早くに散逸し、室町時代には既に揃いの完本の形では伝えられておらず、断片的な抄出本や数年分の零本の形で伝わるものがほとんどであったと推測されている。それらを集めて、42巻とか43巻とかまでに収集と補訂が行われたものが、北条本系では徳川家康、吉川本では右田弘詮(陶弘詮)の手に渡り、そこで更に欠損分の収集が行われて51巻あるいは48巻という形に復元されていったとされる。

北条本
現在もっとも一般的なテキストである1933年(昭和8)の『新訂増補国史大系』の底本となるものは、北条本と呼ばれ後北条氏が所蔵していた写本とされていた。それが1590年(天正18)の豊臣秀吉の小田原攻めのとき、北條氏直が開城の折衝にあたった黒田如水に贈ったものを、如水の子黒田長政が1604年(慶長9)に徳川家に献上したものだと。しかしながら、家康による古活字本開版の準備が1603年(慶長8)には始まっており、この説は現在では否定されている。[52]

現存する「北条本」の分析から、現在では楮紙の古い料紙の32冊と、楮紙の古い料紙に修善寺紙の補入が施されている10冊、修善寺紙のみの1冊の計43巻を家康は1603年(慶長8)以前、おそらくは慶長以前(1596年以前)に一括して手に入れていたと推定される[53]。その後の収集による増補を、それまで入手していたものと同じ書式で書き写させたものが、白紙に近い紙を用いた8冊であり、その追加収集と平行して古活字本開版の準備が進められていたとされる[54]。


『吾妻鏡』古活字本寛永版・林道春(羅山)の跋文黒田長政献上のものが何冊であったかは不明であるが、いずれにしてもその白紙に近い紙による8冊の増補過程で校合に利用されたと思われる。つまり「北条本」と言われる写本は「昔北条本と思われた写本」「いわゆる北条本」であって、後北条氏から伝わった現物はどこにも存在せず、家康の元で増補された写本の中に書き写された原資料ののひとつでしかないということになる[55]。

尚、家康が開版したものは、1605年(慶長10)印行の慶長古活字本(伏見版)であり、外題・版心には「東鑑」、内題には「新刊吾妻鏡」とあり、相国寺の中興の祖とされる西笑承兌(せいしょうじょうたい)の跋文(ばつぶん)がある。寛永版は1626年(寛永3)に、慶長活字版を元に難解な文を訂正しカナを符って『吾妻鏡』の普及を目指したものである。林道春(羅山)の跋文により『吾妻鏡』の由来を理解できるようになっている。

原本は家康没後、江戸城内の紅葉山文庫に収蔵され、現在は国立公文書館蔵で重要文化財である。尚『新訂増補国史大系』はこの「北条本」を底本としながらも、島津本からとされる「吾妻鏡脱漏」を加え、吉川本も校合に用いた。

2009年01月21日

スキージャンプ

スキー競技のひとつ。坂を加速しながら降りてきて、踏み切り台から飛び出し、飛んでいる間のフォームの美しさや距離を争う競技。後述。
空母において、艦載機の離陸滑走距離を短くするため、離陸(離艦)用甲板の先端部に上向の角度をつけること。主に軽空母とSTOL機の組み合わせで使われる。
ダムにおいて、放流する際に用いる、スキーのジャンプ台に似たスロープ状の水路のこと

スキージャンプ、あるいはジャンプは、ノルディックスキー競技のひとつ。

ジャンプ台と呼ばれる専用の急傾斜面を滑り降りて(助走)、そのまま角度の付いた踏み切り台から空中に飛び出し、専用のスキー板と体を使ってバランスをとり、滑空する。その飛距離と姿勢の美しさ、「美しく、遠くへ跳ぶ」ことを競う競技。

この競技を行う選手をジャンパーと呼ぶ。
競技は年間を通じ行われ、冬は雪面を滑り、夏は摩擦係数を抑えた専用の滑走路を滑る。夏の場合は、サマージャンプ競技と呼ぶ。

国際スキー連盟主催のノルディックスキー世界選手権が2年に1度、冬季オリンピックの前年と翌年に行われる。また、毎年、世界各国を転戦してワールドカップが開催されている。年末年始にはスキージャンプ週間(Four Hills tournament)と呼ばれる4連戦で優勝を争う大会が開催される。

種目
正式種目では、ジャンプ台の大きさや形状、助走距離の長さ、K点[1]までの距離などによって、ノーマルヒル(一般にK点90m。かつては「70m級」と呼ばれた。)やラージヒル(一般にK点120m。かつては「90m級」と呼ばれた。)、フライングヒル(K点は180mを超える。日本には台は存在しない)などの種目に分かれる(別項K点参照)。

ノーマルヒル、ラージヒルは、冬季オリンピックの共通正式種目である。スキージャンプのワールドカップでは、ラージヒルとフライングが開催されているが、観戦側のスペクタクル性の観点から近年ノーマルヒルは開催されていない。通常は個人競技として行われるが、ラージヒルやフライングでは、国対抗で団体戦も行われる。

競技内容の重点
屋外競技のため、天候や風の向きや強さなどの自然的条件に左右される。また、気温に起因した、助走面の雪質にも左右される。外見上は派手でダイナミックな競技である反面、自らの精神状態にも左右されるといった、デリケートな側面も持ち合わせている。

助走路(アプローチまたはインラン (In-run))上では、しゃがみ込むような助走姿勢(クローチングまたはクラウチング (crouching))で、風の抵抗を低減し、スピードを得る。重心の位置、助走面の状況、スキーワックスの種類などがスピードに大きく影響する。
踏み切り地点(カンテ)上において、立ち上がる反動力で飛び出す(テイクオフ)。踏み切りの動作をサッツという。助走で得た速度に加え、踏み切りの方向、タイミング[2]、飛び出し後の空中での風向風速などが飛距離に大きく影響する。
空中姿勢は、静止に見える状態がベストだが、時代によって理想形は変化する。2008年現在は、両脚でスキーをV字型(スキー後方の内側の角が接触し、前方が大きく開いた状態)に開き、身体との間に空気を包み込むようなスタイルが理想とされている。その歴史背景については、後述する。
着地姿勢は、テレマーク (Telemark) 姿勢が理想とされる。体操競技での着地ポーズに相当する。テレマーク姿勢とは、両手を水平に開き、しゃがんだ状態で、膝から下を前後に開く(後ろの足はつま先立ち)、着地ポーズをいう。語源については、後述する。
着地後、転倒ラインを越えるまでの間に手をついたり、転んだりすると飛型点が減点される。

得点集計方法
着地するまでの落下・滑空距離(飛距離)
空中での滑空時姿勢(飛型)
着地時の姿勢の美しさ(着地姿勢)
をポイント化して競う。通常は2回行い、合計点で競う。

飛距離は、着地地点での姿勢により、スキーの中間点(一足ランディングの場合)、または、両足の中間(テレマーク姿勢の場合)を、それぞれの着地距離地点を担当する計測担当者の目測により割り出される。飛距離が予測を上回って観測者がいない地点に着地した場合は、実際に計測する。 飛距離に対する得点は、ジャンプ台の規模により計算される。 K点を60点とし、そこから下表に示す点数を飛距離に応じて加減する。

K点距離 1m当たりの点数
<20m 5.2
20?24m 4.8
25?29m 4.4
30?34m 4.0
35?39m 3.6
40?49m 3.2
50?59m 2.8
60?69m 2.4
70?79m 2.2
80?99m 2.0
100?169m 1.8
>170m 1.2
チルー オストメ ミモレ サイド ジャック プレクリ スコポフ きゅうてい スパイス ウフジ ラップ トーシュズ サイレン ノーカ キンセン チャイルド スター ホンコン デックス きゅう メトセク ルーキー バリヤー シュルレ フォトス フィブリン トリプタン ソユーズ ワゴン シェア すあわ ステージ ボケSEO ムルロ グルベド どふぇ ユニオ スマッ ブレテ アイス テーブル ファシズム 男船日本 未来地図 端玉アク シブシップ 長崎赤 ケイトウ モンゴ サイフォン

(例)K=120の場合、1m当たり1.8点を加減する。

飛距離130.0mのとき    
130-120=10.0m
10.0×1.8=18.0
60+18.0=78.0pt
飛距離110.5mのとき
110.5-120=-9.5m
-9.5×1.8=-17.1
60-17.1=42.9pt
飛型と着地姿勢は、実際に5人の飛型審判員によって行われる。1人の持ち点は20点満点であり、公正を期するため、5人中最高最低1名ずつの得点を除き、中間3名の得点合計が加算される。飛型は空中静止、着地姿勢はテレマーク姿勢が理想とされる。それぞれの基準は、歴史上、何度か変更されている。

通常は、2本跳んだ後の、それぞれの得点要素の合計で順位が競われる。天候の悪化などにより、1本目のみで競技終了となる場合もある。

ワールドカップでは、1本目を終えた時点で、飛型点・飛距離点を合計し、上位30人に絞り、残った者から得点の低い順に2本目を跳ぶため、1本目に最高得点した者が、最終ジャンパーとなる。現在は、多くの大会でこの方式を用いる。

前述のジャンプ週間における4試合においては「KO方式 (KnockOut System)」が採用されている。これは1本目、50人が2人ずつ組になって競技を行い、それぞれの組の勝者25人と、敗者のうち得点の高かった5人(ラッキー・ルーザー (Lucky Loser))の計30人が2本目を行って、この2本の合計得点により順位を決定するものである。この方式を導入した目的は、参加者が多くなると、最初の方に飛んだ選手と最後の方に飛んだ選手では気象条件が異なる場合が多く、なるべく平等な環境で競技を実施することにある。

日本では、HBC杯において2003-2004のシーズンからトーナメント形式が採用されている。男子は予選の上位16人が準々決勝(16人→8人)準決勝(8人→4人)と1対1で対戦して行き、決勝は4人の中で最高得点者が優勝者となるものである。また、2008年より新設された女子の部は初年度は予選の上位4人が準決勝(4人→2人)を行い、決勝戦も1対1で行われた(このシステムは選手の増加によって変わる可能性もある)。

コスチューム、用具

用具
ジャンプは、飛距離をいかにして稼ぐかについて特殊化した、ストックを使用しないスキー競技である。

ジャンプでは、幅が広く、長いスキーを使用し、これにより揚力を得て落下を遅らせる。スキーには、その時代で7?9本以上の溝があり、直進方向に適し、スピードを得られる工夫がなされ、踵が上がるようになっている。また、板が大きく長いにもかかわらず、非常に軽量である。

毎年各メーカーは、規定の範囲で細かな工夫を重ねているが、過去にはスキーの先端が通常の三角形でなく、四角くトップの角度を低くした、いわばカモノハシの口のような板や、先端に穴をいくつも開けて空気抵抗を低くしようとした板など、一目見ただけでもわかるようなユニークな板もあった。

ジャンプ板を製造できる技術を持ったメーカーは限られており、2005年現在ロシニョール、ATOMIC、ELAN、フィッシャーでほぼ占められている。他にはBLIZZARDやGERMINAもある。過去にはクナイスル、エルバッハ等も供給を行っていた。

スキーの長さについては、度々規則が改定され、現在は、身長とBMIを元に長さを算出する形式が用いられている。複数の日本人選手が世界的に活躍したシーズンの終了と共にルール改定がなされる事が多いため、日本人差別を主張する関係者もいるが、ルール改定は数年にわたる議論の上で行われている。また、アダム・マリシュの大躍進をはじめとして、現在の方式に変わった後、背の低い選手が上位に食い込むことはむしろ増加傾向にある。そのため、「日本人選手に不利なルール」といった言い訳が通用しないようになってきており、規制が改定された後の対応が世界に比べ大幅に遅れたのが低迷の原因である、と意見する者がいることも事実である。

一方、長い間低迷していた選手や、ピークを過ぎたと思われて半ば忘れ去られていた選手が突然トップクラスの戦いをすることがあるのもこの競技の特徴であり、過去にはディーター・トーマ、イエンス・バイスフロク(ともにドイツ)、日本では2004年の東輝、2005?06にかけての岡部孝信など、にわかに復活する選手が存在する。これは、本人のたゆまぬ努力はもちろんであるが、頻繁に変更される規定などにうまく適合できるかどうかもポイントとなるためである。